第19代宗主 本如(ほんにょ)上人 1778年~1826年(1月8日御祥月)

第19代宗主
本如(ほんにょ)上人 (1月8日御祥月)
1778年~1826年

本如上人は、1778(安永7)年に第18代文如(もんにょ)上人のご子息としてご誕生されました。
1799(寛政11)年に文如上人ご往生の後を承け、22歳で本願寺第19代の法灯をご継職されました。

上人の最大のご功績は、前々代の法如上人の時から論争となっていた「三業惑乱(さんごうわくらん)」という安心(あんじん)問題(教義論争)の裁断でありました。
「三業惑乱」は、教義に関する学問の最高位にあった智洞(ちどう)師が、お念仏のみ教えは「たすけたまえ と意に思い、口に出し、身に現すことである」と主張(新義派)したことにはじまり、それに対し「身(しん)、口(く)、意(い)の三つの行為で念仏せねばならぬというのは自力的な要素をもつものである」との批判(古義派)が起こりました。

この問題は門信徒にも広く浸透している『領解文(りょうげもん)』の解釈にも関わるものでありましたので、この論争は学匠のみならず広く僧俗を巻き込む教団全体の騒動となりました。
そして、ついに幕府寺社奉行が両派の代表を呼び出して事情聴取を行い、その結果1806(文化3)年、幕府は「新義派を不正義」・「古義派を正義」とする裁決を出し、それぞれに処罰を与えるとともに、騒動の総責任は本願寺にあるということで、本願寺に百日間の閉門を命じました。

当時29歳であった本如上人は、門主の最終判断として絶対他力の立場を『御裁断御書(ごさいだんのごしょ)』として全門末に通達され、この御書がその後の教団の教学問題の基準となりました。

なお、幕府の詮議の間、築地御坊(別院)は教団の中心となって働き、古義派の代表となった安芸国(広島)の大瀛(だいえい)師は裁判中に築地御坊で病死され、墓碑が境内に建立されています。

また上人は祖師(親鸞聖人)550回大遠忌法要を勤修され、それに先立ちご影堂の大修復や、地方別院の巡回、62通におよぶ各種ご消息(教示のお手紙)の下付などにご尽力なされました。
また一方、芸術面にも御造詣が深く、絵画に巧みで雅号を碧山(へきざん)と号し、和歌や雅楽、茶道も嗜まれました。

上人は宗主として27年間在職されましたが、1826(文政9)年12月12日(旧暦)49歳で浄土へご往生されました。
院号を信明院(しんみょういん)と申し上げます。

本如上人御祥月命日 1月8日 (旧暦12月12日)

※参考文献 福間光超著/「親鸞聖人と本願寺の歩み」(永田文昌堂)